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Tちゃん
2013年09月09日
先週1週間は、ずっとTちゃんのことを考えてた。彼女は、小・中・高一緒で、大学時代は別の大学だったが1年間は一緒に暮らした。
今年の2月にいとこのCが亡くなったとき、もう、Cのことを話せる人はTちゃんしかいない、彼女にCの死を知らせなくちゃと思っていたのに、会うこともないまま、Tちゃんも9月1日に亡くなった。2人とも天国での再会にびっくりしているだろう。
Tちゃんとは、高校3年間と予備校、大学1年、計5年間、濃い時間を過ごした。高校1年のときに、学校からアメリカの姉妹校へホームスティに行ってからすごく仲良くなったと思う。高校時代はクラスにはならなかった。この20年間はほとんど会っていない。3,4年ほど前にあるパーティで会って、そのとき久しぶりに長く話をした。そして、2,3年前、デパートで娘さんと一緒のTちゃんに偶然会い、彼女は「娘が映画が大好きで、Kさんに会わせたいと思っていたの。いつかゆっくりお話して」と言ってそばにいた娘さんを紹介してくれた。
Tちゃんは、とても気持ちの優しい人だった。絶対に人の悪口を言わないし、相手を心配させる言葉も言わない。だから、Tちゃんのご主人が、約10年に渡る彼女の闘病生活を説明して、「最後の言葉は、ありがとう、そして、疲れた、でした」と言ったときに、すごく我慢していたんだなと思った。
私は、お通夜、出棺、告別式に行った。通夜では、Tちゃんのご両親とも久しぶりにお話しした。出棺は、お坊さんのお経が終わって、「おみやげ」を棺に入れるときから顔を出した。棺に「おみやげ」を入れ、いよいよTちゃんの遺体を白装束でつつむときに、お母さんまがハンカチをギュッと握りしめて声をころして泣き始めた。大切な自慢の娘であったTちゃんを送る・・・。お父さまは葬儀屋が「おみやげ」を説明しているとき、それを聞きながらTちゃんの頭をずっと撫でていた。それを見たら私は涙が止まらなくなった。告別式には母も妹も一緒に行った。
私の中でのTちゃんは、いつも明るく、優しい声で「Kさん」と声をかけてくれている。そしてちょっとジョークを言って「うふふ」といたずらっぽく笑っている。エア・サプライを一緒によく聞いた。ホームスティで行ったシアトルのこと、映画のことよく話した。彼女に会って、フランスでのこととかも話したかった。しばらく、彼女のことを考える日が続くと思う。合掌。
今年の2月にいとこのCが亡くなったとき、もう、Cのことを話せる人はTちゃんしかいない、彼女にCの死を知らせなくちゃと思っていたのに、会うこともないまま、Tちゃんも9月1日に亡くなった。2人とも天国での再会にびっくりしているだろう。
Tちゃんとは、高校3年間と予備校、大学1年、計5年間、濃い時間を過ごした。高校1年のときに、学校からアメリカの姉妹校へホームスティに行ってからすごく仲良くなったと思う。高校時代はクラスにはならなかった。この20年間はほとんど会っていない。3,4年ほど前にあるパーティで会って、そのとき久しぶりに長く話をした。そして、2,3年前、デパートで娘さんと一緒のTちゃんに偶然会い、彼女は「娘が映画が大好きで、Kさんに会わせたいと思っていたの。いつかゆっくりお話して」と言ってそばにいた娘さんを紹介してくれた。
Tちゃんは、とても気持ちの優しい人だった。絶対に人の悪口を言わないし、相手を心配させる言葉も言わない。だから、Tちゃんのご主人が、約10年に渡る彼女の闘病生活を説明して、「最後の言葉は、ありがとう、そして、疲れた、でした」と言ったときに、すごく我慢していたんだなと思った。
私は、お通夜、出棺、告別式に行った。通夜では、Tちゃんのご両親とも久しぶりにお話しした。出棺は、お坊さんのお経が終わって、「おみやげ」を棺に入れるときから顔を出した。棺に「おみやげ」を入れ、いよいよTちゃんの遺体を白装束でつつむときに、お母さんまがハンカチをギュッと握りしめて声をころして泣き始めた。大切な自慢の娘であったTちゃんを送る・・・。お父さまは葬儀屋が「おみやげ」を説明しているとき、それを聞きながらTちゃんの頭をずっと撫でていた。それを見たら私は涙が止まらなくなった。告別式には母も妹も一緒に行った。
私の中でのTちゃんは、いつも明るく、優しい声で「Kさん」と声をかけてくれている。そしてちょっとジョークを言って「うふふ」といたずらっぽく笑っている。エア・サプライを一緒によく聞いた。ホームスティで行ったシアトルのこと、映画のことよく話した。彼女に会って、フランスでのこととかも話したかった。しばらく、彼女のことを考える日が続くと思う。合掌。
宮本信子
2013年08月25日

今日(8月25日)、NHKで午後3時から「女優宮本信子と伊丹十三」という番組をやっていた。宮本信子は好きな女優の一人だ。彼女が有名になった夫の十三監督の映画「お葬式」で、素敵な女性だなと思った。日本にもこんな知的な女優がいるんだなと思った(1983,4年当時)。いまや、国民的番組「あまちゃん」の国民的な「夏バッバ」である。
番組では伊丹十三との関係を「初めは先生と生徒みたいで、子育て、そして映画制作を通して、パートナーになったという感じかな」と語っていた。理想的な関係だ。
1997年に伊丹は不幸な死を遂げた。「妻はいい女優なのに誰も使ってくれなくて、僕が自分の映画で主演にした」と話していた伊丹は、今のエネルギーあふれる「バッバ」を演じる宮本を天国からどう見てるだろうか。
土曜日(24日)の「あまちゃん」、退院してベッドに座っている夏(宮本)とそばで洗濯ものをたたんでいる春子(小泉今日子)。二人で、アキが初めてウニを取った日のことを思い出している。夏バッバが「たった、ひとつだけなのによ~」と言って春子と笑う。この日常のシーンにはっとなった。こういう風景、見たことある。祖母と母が、あるいは叔母と祖母がこんななんてことはない普通の生活でのトピックスをしゃべっていたなあと思いだした。これはテレビ史に残る名シーンではないか。そしたら、夜、妹も同じことを言っていた。「宮本信子がすごいねー」。普通を演じるってのはほんとにすごいことだと思う。
明日も「あまちゃん」が楽しみ。そして、「お葬式」を久しぶりに見たくなった。

宮本、伊丹が暮らした湯河原の家。「この冷蔵庫はまだ捨てられない。伊丹さんなの」と話していた(テレビより)。
単なる「駒」にすぎない
2013年08月21日
(さっきテレビで、女性のブログはぐちばっかりで・・・という話があった。私のブログもぐちになりますが・・・)
私は、いやなことや落ち込んだりするとすぐに顔や声に出てしまうようで、今日、海外にいる友人と電話で話していて「声に元気がないわよ」と言われてしまった。
突然、異動することになった。しかも非常に忙しいところにいく。詳しくは書けないが、「どうしても巨人に行きたかった」江川のために(せいで)、阪神に行かされた小林繁の心境だ。古い話、わかる人いるかしら。
たいがいのことなら、寝て覚めて起きたら、「この状況でも頑張ろう!」と何か光を見出すのだが、今回はちょっときつい。人事の話があって10日ほどだが、やっと前向きに考えることができたかな、という感じ。
現場の状況を聞いて人事をしてほしかった。おそらくほとんど夜勤(それもいや)になるので、生活がガラっと変わってしまう。9月の予定があったのに、こういうことをこの人事を考えた人はどう思っているのだろう。派遣という弱い立場の私、でも、こっちにだってプライドっていうものがあるんだよ。勝手に動かされて(人事は勝手なものなのだが)、ほんとに大きな組織の中では単なる駒にすぎないんだと思ったら涙が出てきた。
ほんとに悔しい。でも、次に何すをるか、を考えるいい機会かもしれない。
私は、いやなことや落ち込んだりするとすぐに顔や声に出てしまうようで、今日、海外にいる友人と電話で話していて「声に元気がないわよ」と言われてしまった。
突然、異動することになった。しかも非常に忙しいところにいく。詳しくは書けないが、「どうしても巨人に行きたかった」江川のために(せいで)、阪神に行かされた小林繁の心境だ。古い話、わかる人いるかしら。
たいがいのことなら、寝て覚めて起きたら、「この状況でも頑張ろう!」と何か光を見出すのだが、今回はちょっときつい。人事の話があって10日ほどだが、やっと前向きに考えることができたかな、という感じ。
現場の状況を聞いて人事をしてほしかった。おそらくほとんど夜勤(それもいや)になるので、生活がガラっと変わってしまう。9月の予定があったのに、こういうことをこの人事を考えた人はどう思っているのだろう。派遣という弱い立場の私、でも、こっちにだってプライドっていうものがあるんだよ。勝手に動かされて(人事は勝手なものなのだが)、ほんとに大きな組織の中では単なる駒にすぎないんだと思ったら涙が出てきた。
ほんとに悔しい。でも、次に何すをるか、を考えるいい機会かもしれない。
プロレス初観戦!
2013年08月10日

昨日(8月9日)、初めてプロレスを見た。長州力や天龍などが出るのと違い、ちょっとソフトムード(?)のもの(いや、レスラーたちは真剣だ)。沖縄ハーバービューで「琉球ドラゴンプロレスリング夏祭りinハーバービュー」という催しで、会社の同僚からチケットをもらったので行ってきた。
ハーバービューでの結婚式や、私の出身高校の同窓会も行われた「彩海」の間が会場だ。午後7時から食事(立食)、8時からイベントが始まった。
夏休みということもあり、家族連れが多い。以前、沖縄プロレスがあったときに「ぜひ見たい」と思っていたのだが、いつのまにか消滅していたので、昨日はいい機会だった。
オープニングで、MCの2人(メインイベントにも出てきたグルクンッマスクとハイミスカスみぃ)が、プロレスのルールを説明していた。私は同僚3人と一緒だったが、私たちの席の前にノリノリのおっちゃんがいて、MCの説明にも元気に「おー」とか声をかけ常連客なのかなと思った。で、いつの間にか、ペンとメモ帳を出して何か書き始めたので、相当の「プロレス通?」だと思った。MCの2人が「では、プロレス見るの、今日が初めての方~」と会場に問いかけると、そのおっちゃん「は~い」と元気よく答える。なんだ、仲間じゃないか。おっちゃんは酒を飲みながら、いい具合になっていたんですね。
メイン含めて3試合行われたが、笑いました。子供たちが、レスラーに「グルクンがんばれ~」とか声をかけていたけど、彼ら怖くなかったのかしら。

場外もありました。(お約束?)
やりがい
2013年08月08日
久しぶりのブログ。いけない、いけない、頻繁にアップしなきゃ。
6月下旬から「夏休みこども応援隊」の準備で、7月はじめはいそがしく、間をおかず、特集ものが続いて、家に帰ってきたら、
ボーっと(あ、そうでもないか、ちょっとスマホでのゲームにはまってるから)した日々でした。8月も特集が続くのですが、うなぎ、ゴーヤーなど
クンチがつくのを食べてやりますよ~。
夏休み特集ではプレゼントもあるのだが、その応募ハガキには紙面を読んでの感想が書かれている。自分が取材したものが「ためになった」「いい企画だ」などとほめられるとほんとに疲れも吹っ飛ぶ。こうやって評価されるとやりがいもありますね。
あるとき、後輩とおしゃべりしていて「言われて一番うれしい言葉は何か」という話題になった。2人とも一致したのが、「かわいい」や「きれい」ではなく「いい文章だね」という言葉。。これを言われると、つらいことや、悲しいことがあっても一気に吹っ飛び幸せになる。たくさん言われたい。でも、こういう大切な言葉はあんまり言われたくない・・・。
6月下旬から「夏休みこども応援隊」の準備で、7月はじめはいそがしく、間をおかず、特集ものが続いて、家に帰ってきたら、
ボーっと(あ、そうでもないか、ちょっとスマホでのゲームにはまってるから)した日々でした。8月も特集が続くのですが、うなぎ、ゴーヤーなど
クンチがつくのを食べてやりますよ~。
夏休み特集ではプレゼントもあるのだが、その応募ハガキには紙面を読んでの感想が書かれている。自分が取材したものが「ためになった」「いい企画だ」などとほめられるとほんとに疲れも吹っ飛ぶ。こうやって評価されるとやりがいもありますね。
あるとき、後輩とおしゃべりしていて「言われて一番うれしい言葉は何か」という話題になった。2人とも一致したのが、「かわいい」や「きれい」ではなく「いい文章だね」という言葉。。これを言われると、つらいことや、悲しいことがあっても一気に吹っ飛び幸せになる。たくさん言われたい。でも、こういう大切な言葉はあんまり言われたくない・・・。
うなぎと赤ワイン
2013年07月13日

特集号の取材、制作で6月下旬から、週末もほとんど仕事していた。無事、終わり特集号も発行された。それで、自分へのささやかなご褒美というか、一人打ち上げで、うなぎと赤ワインです。両方とも安いものだけどね。ワインとうなぎって合うんだよね。
みんなが「え、うなぎだと白ワインじゃない?」と聞くけど、うなぎを見ると、「赤」って感じがする。うなぎは海のものだから、「白」というイメージなのだろうか。赤ワインとのマリアージュは以外だろうけど、これがおいしい。ワインは渋め(写真のは軽くて飲みやすい)がより合うかもしれない。うなぎは鹿児島産、身がぷりぷりで食べ応えがあった。すでに猛暑が続くこの夏、バテないために、うなぎと赤ワイン、いいかも。
林真理子
2013年07月06日
昨日はアサイチと、TBS夜9時からの金スマに林真理子が出ていた。最近メディアに露出が多いなあと思ったら、「野心のすすめ」という本がベストセラーになっているという。
林真理子は、学生時代、読みに読みまくった。「ルンルンを買っておうちに帰ろう」をリアルタイムでは買わなかったが、まあ、ほぼリアルタイムかな。角川から文庫本が出て、ほんとそろえたよねー。そうだ、記者時代、パイロットクラブが呼んでの講演会も取材したことあったワ。講演会の楽屋までいってプレゼント渡したんだよ。けっこういいものをあげた記憶があるけど、それが何だったかは思い出せない。
テレビでは、林真理子が就活で40社、すべて落ちたことを取り上げていたけど、それも、昔の本に書かれていたことを思い出した。でも野心というか、「高望み」でほしいもの全部を手に入れた人、握力が強かったんだろうね。彼女も、そしてもうひとり好きな作家だった(故)森瑤子も、そして、はばかりながら私も、「風と共に去りぬ」に影響を受けた少女だった。スカーレットの野心、美、そして、レッド・バトラーですよ。ま、これは置いといて。
林真理子の小説もずいぶん読んだ。でも、あるときから物語の先が見えちゃって、彼女の本を手に取るのをやめていたけど、また、読んでみようかしら。私も50になったから、感じ方に変化があるかも。
林真理子は、学生時代、読みに読みまくった。「ルンルンを買っておうちに帰ろう」をリアルタイムでは買わなかったが、まあ、ほぼリアルタイムかな。角川から文庫本が出て、ほんとそろえたよねー。そうだ、記者時代、パイロットクラブが呼んでの講演会も取材したことあったワ。講演会の楽屋までいってプレゼント渡したんだよ。けっこういいものをあげた記憶があるけど、それが何だったかは思い出せない。
テレビでは、林真理子が就活で40社、すべて落ちたことを取り上げていたけど、それも、昔の本に書かれていたことを思い出した。でも野心というか、「高望み」でほしいもの全部を手に入れた人、握力が強かったんだろうね。彼女も、そしてもうひとり好きな作家だった(故)森瑤子も、そして、はばかりながら私も、「風と共に去りぬ」に影響を受けた少女だった。スカーレットの野心、美、そして、レッド・バトラーですよ。ま、これは置いといて。
林真理子の小説もずいぶん読んだ。でも、あるときから物語の先が見えちゃって、彼女の本を手に取るのをやめていたけど、また、読んでみようかしら。私も50になったから、感じ方に変化があるかも。
見晴らしのいい場所
2013年06月24日
昨日(6月23日)、2月に亡くなったいとこの墓参りに家族で行った。彼女の住んでいた名護の実家から歩いて10分以内のところにお墓はあった。叔父が一緒に車に乗って案内してくれた。「ありがとうねー。(Cは)丈夫じゃないのに、土、日もやーにかからん(家にいなくて外出ばかり)、もっと用心していたらこんなことに(亡くなる)はならなかったよ」と無念さをにじませて話した。
墓の場所は少し小高いところにあり、草が生い茂ったところを歩いていった。墓の前に来て母が「いい場所だね。名護が見渡せるねー」と墓の中のCに聞こえるように大きな声を出していた。叔父は「(墓は)110万かかった」とぽつんと言った。80代半ばの叔父が自分より先に逝った子の墓を建てるのはどんな思いだったか。
私たちは、名護のJAで買った紫の小菊、三越で買った抹茶のケーキを墓前に置いた。Cは抹茶は好きだっただろうか。わからないが来てくれたことを喜んでいるだろう。叔父も「とー、Cも喜んでいるさ。ありがとうねー」と線香をあげる私たちを見ながら言った。この日、叔父は何回「ありがとう」と言っただろうか。墓に向かって手を合わせながら私は「50歳になったよ」と報告した。Cも今年50歳になるはずだった。
墓参りは午後3時ごろで暑さもピークのとき。強い日差しの下、私の顔からは汗が吹き出、ぼろぼろと涙も流れた。
墓に居たのは15分くらい。Cの墓のそばには大きな亀甲墓があった。しかし草が伸び放題。墓石も黒ずんでいるようだ。叔父に「大きな墓だねー。金持ちのなんじゃない」と聞くと、「この墓の持ち主は(会社が)倒産して、どこかにいった」と教えてくれ、少し湿っぽくなっていた私たちは、叔父の話し方がおかして笑ってしまった。
墓の場所は少し小高いところにあり、草が生い茂ったところを歩いていった。墓の前に来て母が「いい場所だね。名護が見渡せるねー」と墓の中のCに聞こえるように大きな声を出していた。叔父は「(墓は)110万かかった」とぽつんと言った。80代半ばの叔父が自分より先に逝った子の墓を建てるのはどんな思いだったか。
私たちは、名護のJAで買った紫の小菊、三越で買った抹茶のケーキを墓前に置いた。Cは抹茶は好きだっただろうか。わからないが来てくれたことを喜んでいるだろう。叔父も「とー、Cも喜んでいるさ。ありがとうねー」と線香をあげる私たちを見ながら言った。この日、叔父は何回「ありがとう」と言っただろうか。墓に向かって手を合わせながら私は「50歳になったよ」と報告した。Cも今年50歳になるはずだった。
墓参りは午後3時ごろで暑さもピークのとき。強い日差しの下、私の顔からは汗が吹き出、ぼろぼろと涙も流れた。
墓に居たのは15分くらい。Cの墓のそばには大きな亀甲墓があった。しかし草が伸び放題。墓石も黒ずんでいるようだ。叔父に「大きな墓だねー。金持ちのなんじゃない」と聞くと、「この墓の持ち主は(会社が)倒産して、どこかにいった」と教えてくれ、少し湿っぽくなっていた私たちは、叔父の話し方がおかして笑ってしまった。
二十四の瞳
2013年06月23日
昨日(6月22日)、bsで「二十四の瞳」を見た。何度が映画、テレビ化されているが、私が見たのは、木下恵介監督、高峰秀子主演の1954年作である。戦争が終わってまだ9年後。当時の人々には戦争はまだ生々しい記憶として残っていたかもしれない。
緑ゆたかな島の風景の中に、子どもたちの「せんせい~」というかわいい声が響く。平和でのどかな人々の生活が画面を通して伝わってくる。しかし、世界恐慌(1929年)の影響や、確実に軍靴の響きが小さな島にもこつこつと近づいてくることがわかる。大石先生の教え子12人の内、男子5人は戦場に行き、生きて帰ってきたのは2人。女子は7人のうち1人が亡くなった。また大石先生の家族も夫(なんと天本英世が演じいる。もう故人だが、仮面ライダーの悪役など有名。特異な風貌の俳優だった)、末娘が終戦直後の栄養不良で死ぬ。
生徒たちの出征風景、そして家族が遺影をかかえてもどってくるシーンを見ていると、「戦争」とそれを遂行することを決めた「国家」がいかに普通の人々の生活を無視し、自分たちの利益のみで政治を行っているかということに腹がたってくる。これは21世紀になっても変わらない。あの戦争で多くの命が失われ、そしてその家族たちの思い描いていた人生も大きく変わった。
大石先生は、軍国教育についていけずに教師をやめるのだが、現実には多くの教員は子どもたち、特に男子を奮い立て「国のために頑張れ」と戦場に送り出した(戦後、その反省から出てきた日教組のスローガン「教え子を戦場に送るな」は素晴らしい「コピー」だと思う)。
劇的なシーンはないが、出演者の慟哭に近い「泣き」のシーンが多く、画面を見ながら一緒に泣いた。BGMの童謡や文部省歌もよく、これもまた涙を誘った(随所に私の好きな「アニー・ローリー」が流れていた)。
「二十四の瞳」は、以前、NHKが毎日午後6時から放送していた「少年テレビ小説」の中で見たことがあった。戦争に行って目をやられ盲目になるソンキやアルマイトのお弁当箱は印象に残っている。
今日、23日は慰霊の日。国からソーリの他に、外務大臣、防衛大臣もくるというけど、「辺野古」説得ではなく、多くの戦争体験者からその体験談を聴いてほしいわ。そして、「二十四の瞳」を見よ。その根底に流れる「戦争反対」を受け止めよ。
緑ゆたかな島の風景の中に、子どもたちの「せんせい~」というかわいい声が響く。平和でのどかな人々の生活が画面を通して伝わってくる。しかし、世界恐慌(1929年)の影響や、確実に軍靴の響きが小さな島にもこつこつと近づいてくることがわかる。大石先生の教え子12人の内、男子5人は戦場に行き、生きて帰ってきたのは2人。女子は7人のうち1人が亡くなった。また大石先生の家族も夫(なんと天本英世が演じいる。もう故人だが、仮面ライダーの悪役など有名。特異な風貌の俳優だった)、末娘が終戦直後の栄養不良で死ぬ。
生徒たちの出征風景、そして家族が遺影をかかえてもどってくるシーンを見ていると、「戦争」とそれを遂行することを決めた「国家」がいかに普通の人々の生活を無視し、自分たちの利益のみで政治を行っているかということに腹がたってくる。これは21世紀になっても変わらない。あの戦争で多くの命が失われ、そしてその家族たちの思い描いていた人生も大きく変わった。
大石先生は、軍国教育についていけずに教師をやめるのだが、現実には多くの教員は子どもたち、特に男子を奮い立て「国のために頑張れ」と戦場に送り出した(戦後、その反省から出てきた日教組のスローガン「教え子を戦場に送るな」は素晴らしい「コピー」だと思う)。
劇的なシーンはないが、出演者の慟哭に近い「泣き」のシーンが多く、画面を見ながら一緒に泣いた。BGMの童謡や文部省歌もよく、これもまた涙を誘った(随所に私の好きな「アニー・ローリー」が流れていた)。
「二十四の瞳」は、以前、NHKが毎日午後6時から放送していた「少年テレビ小説」の中で見たことがあった。戦争に行って目をやられ盲目になるソンキやアルマイトのお弁当箱は印象に残っている。
今日、23日は慰霊の日。国からソーリの他に、外務大臣、防衛大臣もくるというけど、「辺野古」説得ではなく、多くの戦争体験者からその体験談を聴いてほしいわ。そして、「二十四の瞳」を見よ。その根底に流れる「戦争反対」を受け止めよ。
NHK 朝の連続テレビ小説
2013年06月08日

おらのまいあさの楽しみは、エヌエッチケーの「あまちゃん」を見ることだ。前の晩、「あすもあまちゃんだー」と気合を入れて寝てるんだ。朝のテレビ小説に夢中になったのは、ほんどに久しぶりだー。
「あまちゃん」のアキになったつもりで書きました。毎朝、笑ってスタートしています。脚本(今後どうなるのか? ワクワクしながらも、アイドル路線をどうふくらませるのかがちょっとわからないけど)、脇を固める名優陣の演技に感嘆しています。もちろん、ヒロインの能年さんも魅力によるところが大きいけど。それから、あこがれの君であった種市君。かっごえー。あんな子がズブンの高校時代、クラスにいたらもっと楽しかったんべー。今は、あんな息子がほしい。
昨日(6月7日)は、アキの友達ユイちゃんが、「アイドルのオーディションを受けに東京に行く」ということで家族とケンカ。そこでフジのアナウンサーだった八木演じるママに「ママみたいになりたくないのー。アナウンサーだったのに結婚して、こんな服着てー家族のためにだけ。そんなのいやなの」というニュアンスのセリフが私のフェミニズム感覚を刺激した。
以前、「母のようになりたくない」は、夫につかえて(古いなあ)、自分よりもまず家族を優先していた専業主婦に言われた言葉だった(一般的にね)。
しかし、ユイママは、「花の」女子アナという職業であったのだが、結婚して辞めた家庭の主婦。夫は県議会議員であり、自分の好きなこともやっていて、かなり「自由度」の高いママのようだ。しかし、ユイは「そんなふうになりたくない。私は東京に行ってアイドルになって、好きなことをしたい」と啖呵を切る。
以前、「母のようになりたくない」と言った娘たちの目指す道は職業を持って、男と同じようにバリバリを働く「キャリアウーマン」(これも古い言葉かな)だった。ユイは幼いころからの憧れを実現させたいと思っている。ママに向けられた怒りは、花形職業についていたのに結婚してやめて家庭に入った母へのはがゆさ?この「ママのようになりたくない」の「ママ」は、これまでこの言葉が向けられた「母親」たちとは違って一応は社会に出ていたのだが(脚本が男性というのも関係あるかもしれない)。いずれにせよ野心ある娘はいつの時代も「母」のようにはなりたくないのだ。ユイちゃんが、どんなふうな道を歩んで行くのかも楽しみだ。
朝のテレビ小説にはまったのはほんとに久しぶり。大学4年のときに、斉藤由貴主演の「はね駒(こんま)」というのがあって、これを毎朝見ていた。時代は明治、主人公が日本で初めての女性の新聞記者になるという物語で、マスコミを目指していた私はそういった思い入れもあり熱心な視聴者だった。「あまちゃん」に出ている美保純もいたな。樹木希林、小林稔侍(これでブレイク)が主人公の両親役でとてもよかった。それから、主人公の夫が今は「世界の」渡辺謙でした。なっつかしー。これも東北が舞台だったワ。そうそうジュリーも出てた。

懐かしの斉藤由貴です。
レッツゴー、フィフティーズ
2013年05月23日

5月21日に、高校時代の同級生と50歳の誕生パーティをした。場所は、大好きな市場の中のフレンチレストラン、「プティット・リュ」。
高校時代の話はもちろん、同級生や子どもさんのこと(この中にママ二人)、話は弾みましたワ。お腹がよじれるほど笑ったエピソードもあったし。高校時代のことを思い出すと、特別な人はいなかったけど、あの幼くも少し大人びた日々になぜか胸キュン。もう一度戻って、人生を立て直したいワ、なんて思うけど。
この6人の中で私が最初に50歳になりました。今年中にみんな半世紀を迎えます。みんな若いつもりだけど、写真見ると年相応かしら。しかし、同級生はいいね。肉親に近いものがある。これからもよろしく。
プチット・リュのシェフご夫妻からのハーブティー、ケーキもおいしかった。すんごく楽しい夜でした。
ハッピー半世紀
2013年05月14日
私が生まれた1963年の世界史的事件というと、アメリカのケネディ大統領暗殺だ。このことが話題なると、母は必ず「あんたのおしめを洗っていたら、ラジオからケネディが暗殺されたというニュースが流れてきたよ」と言っていた。 あれから半世紀。昨日まで自分の年齢を「プレ半世紀」と言っていたが、今日から「ハッピー半世紀」にします。
50歳になった自分というのは想像もしていなかった。Re-Bornで行きましょう。今年とはいわないけど海にもぐりたい。スキューバーダイビングの免許を取りたい。
「セックス・アンド・ザ・シティ」で、サマンサの50歳の誕生日に、キャリー、ミランダ、シャーロットが「次の50年に乾杯」と言ってお祝いする。
ここが折り返し地点、次の50年も濃く行きたい。
50歳になった自分というのは想像もしていなかった。Re-Bornで行きましょう。今年とはいわないけど海にもぐりたい。スキューバーダイビングの免許を取りたい。
「セックス・アンド・ザ・シティ」で、サマンサの50歳の誕生日に、キャリー、ミランダ、シャーロットが「次の50年に乾杯」と言ってお祝いする。
ここが折り返し地点、次の50年も濃く行きたい。
母の日の朝食
2013年05月12日

今日(5月12日)は母の日。今年は、朝から両親を呼んで、私のウチで朝食を食べた。母の日のプレゼント、どうしようか迷ったのだが、妹がウチに泊まった翌日、サンルームで朝食をとったときに、ふとひらめいた。「母の日のプレゼント、ここ(サンルーム)で朝食をプレゼントしようかしら」。妹も「ママ、こういうの喜ぶかもよ」と同意してくれた。
今朝は、母も父も朝の9時にやってきた。私が朝食によく取るトマト味のスープ、卵焼き、インゲンやパブリカ、たまねき、きのこのソテー、パン、フルーツ、オレンジジュース、コーヒーを用意した。それから、前の日に妹が作ったパエリアが残っていたので、それを出しました。
BGMには、プラジド・ドミンゴが歌うモーツアルト。彼の高らかな声は朝にぴったりだと思うのだが、途中で父がNHKの政治番組「音だけでも」というので、ドミンゴは止めた。
母はいつまでも一家の長女、優等生気質が抜けず、そしてすごく前向き。もっと若いころは、そういう母が自慢であったのだが、今はいつまでもイケイケどんどんの母に少し引くところがあって、「ママ、、もっと大人しく家でゆっくりしてもいいじゃない」と思ったりもする。母が今日、朝食の前に「何かで読んだんだけど、子どもたちは親を選んで生まれてきたんだって。選んでくれてありがとう。あなたたちと家族でよかったと思うよ」と言ったのに対し、あたりまえのことだけど「母にはかなわない」と思った。
貧乏な私は、今は旅行には連れていけないけど、できいるだけ多く一緒に楽しい時間を過ごしたいと思う。

妹が泊まった翌朝は、サンルーム(洗濯物もほします)でブレックファースト。

叔母が泊まった翌朝も。妹もいたので3人でぎゅうぎゅうに。
「屈辱の日」大会
2013年04月29日

日本政府の「主権回復式典」に抗議する「4・28 屈辱の日大会」に4月28日、行ってきた。宜野湾市の宜野湾海浜公園屋外劇場で開かれたが、雨が降っても、どんなことがあっても、とにかく張ってでも行こうと思っていた。この日は晴天。母も夕方から知り合いの結婚式があるけど、どうしても行きたいという。「間に合うかしら」と心配していたので、「とにかく行こう。(大会が)長くなりそうだったら途中ででよう」ということで2人で参加した。1時間の開催で最後までいました。
「沖縄に返せ」を参加者全員で歌う。「民族の怒りに燃える島~」という歌詞に、鳥肌が立ち、涙が出そうになったね。
沖縄が日本から切り離されたサンフランシスコ講和条約発効の28日のことを知ったのは、社会人になってから。今の30代、40代前半を含めた若い人たちは、今回の「主権回復式典」でこの「4・28」のことを知った人が多くいる。知ってよかった。そして、そのことをどう感じるかが問題で、「民主主義」「人権」がどういうことなのかを学んでいきたい(自分も一緒に)。
昨年末の総選挙での自民党大量得票をバックに、あべは危ない道を進もうとしている。「アベノミクス」が本当に日本人の生活に潤いをもたらすのか、まだまだわからないのに、テレビのワイドショーは、景気のいい話を取り上げる。
昨日の県民大会で、登壇者の話を聴いていると、終戦直後、いや昭和30年代までの沖縄(特に米軍基地のあった中部)は無法地帯という感じだった。現在も酔った米兵が民家に入ったりタクシー運転手に暴力を働いたりと、普通の生活レベルでもやりたい放題のことをしている。憲法96条よりも、日米地位協定改定が先。他県の人も、これを沖縄だけの問題だと思わず、日本人全体の問題として考えてほしい。
雨のシーミー
2013年04月17日

肉親の集まりが苦手なのと(嫌だった)、就職した会社が休みが不定期、加えて約10年の外国暮らしで、社会人になってほとんどシーミーに顔を出したことがなかった。自分の直接の家族がまだ元気だったこともあったのだが、3年前に祖母が亡くなり、昨年からシーミーにも顔を出すようになった。今年もどうしようか迷ったけど、行きました。14日、大雨の中でのシーミーでした。写真は、母方の祖母の先祖がいるお墓で、名護の国道沿いにある。

14日の午後は、母方の祖父の墓に行った。海のそばで、晴れていたら海を見ながら、亡き人たちを偲ぶことができたが、風は吹き、雨粒も大きく、お供え物をして急いで線香をあげた。

お供え物を祖父の家に移して、室内でシーミー祭。長老祖父の親族のべ40人が集まった。新婚カップルの紹介があったり、叔母の友人のアメリカ人家族も来たりして、よけいにぎやかになった。

新婚カップル・花嫁の父親(母の従兄弟)が、「かぎやで風」を踊り、食べて、飲んでのシーミーに彩りを添えた。

みんなが帰ったあと、お夕飯はあっさりとおそうめん。小さな姫たちがおいしそうに食べている。それを後ろでにこにこしながら見る祖父。
少し早いプレゼント
2013年03月26日

先日、叔母が遊びに来て、「少し早いけど、誕生日のプレゼント」といって、上の写真、ミトンとキッチン用タオル、下のワイングラスの形をしたキャンドル立てとキャンドル、そして、私の好きなヒョウ柄のエコバックをくれた。
うれしい。ずっと使っているミトンは少し汚れて、また布も破れて中のワタが出てきていたので、新しいのがほしいなあと思っていた。ちょうど長さも厚さもいい。

さっそく、自分の部屋にいき、キャンドルに火をつける。これは消した後だけど、レモンの香りのキャンドル。消したあとも、部屋にその香りがけっこう長く残っていた。始め、私はこれをワイングラスだと思い(そうなんだけど)、「白ワイン入れて飲もうかなあ」というと、一緒にいた叔母が、「これにろうそくいれて火をつけるみたいよ」と教えてくれた。こういうのあったよね。「ワイン、入れて飲んでもいいかもしれないけど」。よく見ると、厚いガラスだわ。

ちょっとした買い物にいいね。けっこう丈夫です。このプレゼントは、アメリカ人の友達とベースの中で買ったそうです。ありがとう。ハッピーデイズを送ろう。
キティのケーキで激励
2013年03月21日

いとこのWが大学を卒業して横浜にある会社に就職が決まったので、出発前の20日、私の実家で、祖父、叔母らも集まり激励会を開いた。私、母、妹で料理を作り旅立つWを祝った。上の写真は、A叔母が作ってきたキティちゃんのケーキ。腕をあげたようで、どっかの店に出してもいいぐらいと思えるほどおいしかった。

私が作ったのは、まず、この写真の右側のサーモンの寿司。ケーキの型にはめこんで寿司、卵焼き、きゅうりを間にはさみ、「ケーキ風サーモン寿司」です。ある雑誌の付録にあり、「う~ん、これ作ってみたい」と思った。左のポテトサラダにはウィンナー、オクラをいれて、ごまドレッシングとマヨネーズで味付け。これは、取材で、オクラ入りのマヨネーズで味付けされたサラダを食べてちょっとはまっているので、みんなに食べさせたかった。豚の生姜焼きは母が作った。肉が柔らかくジューシーでした。

たきこみごはん、サーモン寿司の残りの材料でちらし寿司。そして、やっぱりグリーンもと父の畑で採れた野菜でグリーンサラダ。また、キティを作った叔母が、ホウレンソウの和えものも作ってきてくれた。そのそばにあるドレッシングは、クックパッドから見て作った「ハニーマスタードソース」。はちみつ、マスタード、リンゴ酢、オリーブオイルで作った。ちょっとリンゴ酢が効きすぎたかなという感じだったが、サラダと一緒だといい感じに味が出てた。

これも作りたかった料理。えびのアビージョです。これは激励会の残りで、今日(21日)、お夕飯のときに写したもの。アビージョを初めて食べたときは、なんとも思わなかったけど、会社の飲み会でスペインバル風の店で食べた時に、おいしいなあと思った。で、またクックパッドでレシピを見つけて、「以外と簡単にできそう」と思い作った。好評でした。
主役のWも喜んでくれた。横浜にもおいしいのはいっぱい。仕事も私生活も楽しんで。人生はこれからです。
再会
2013年03月17日
フェイスブックで、フランスにいた時のルームメートが訪ねてきて、また連絡を取り合うようになったという話を書いたことがある。昨日(3月16日)、あることから懐かしいフランス時代の友達が沖縄にいることを知り、再会することができた。
桜坂劇場が主宰している桜坂市民大学のフランス語講座の講師が、以前住んでいたレンヌにいた友人なのだ。昨年の暮れに、桜坂劇場から送られてきた市民大学の冊子を見て「う~ん、あのBに似ているなあ」と思っていたのだが、そのままにしていた。
で、1カ月ほど前、桜坂のHPを仕事の関係で見ることがあり、フランス語講座の講師をまた見て「やっぱり似ている、誰かに確認させたい」と思い、ちょっとドキドキしながらBを知っている友人Yにメールを送った。
「桜坂劇場のHPをクリックし、フランス語講座の講師をちょっと見て。私たちのお友達だったBではないかしら?」。そのYはすぐに返事をくれ「Bですよ。すご~い、ぜひ会ってください」と彼女も興奮していた。
昨日は、午後7時ごろ桜坂へ行った。緊張しながら待っていた。7時5分ごろBが来て、すぐに2階へ行こうとしたので「すみませ~ん」と呼び止め、「あのー、あなた1996年ごろに」と私が切り出すと、向こうもにこっとして二人で声を合わせる感じで「レンヌー」と叫んだ。彼は、10年ほど前にパリでも偶然あったことを覚えていて「こんなふうに会うのは3回目だよねー」と言っていた。結婚して沖縄にきたのは2011年。「沖縄」というと、私をすぐに思い浮かべたそうだ。でも、パリにいると思っていたらしい。
レンヌ時代の私が住んでいたところにも何回が遊びに来たが、「小さな道とか、部屋の中とか覚えてるよ」と懐かしそうに言っていた。Bは年の離れた弟、おいっこという感じだった。今もそういう印象だ。連絡先を交換した。
こんなふうに再会できるなんて、人生は美しいね。
桜坂劇場が主宰している桜坂市民大学のフランス語講座の講師が、以前住んでいたレンヌにいた友人なのだ。昨年の暮れに、桜坂劇場から送られてきた市民大学の冊子を見て「う~ん、あのBに似ているなあ」と思っていたのだが、そのままにしていた。
で、1カ月ほど前、桜坂のHPを仕事の関係で見ることがあり、フランス語講座の講師をまた見て「やっぱり似ている、誰かに確認させたい」と思い、ちょっとドキドキしながらBを知っている友人Yにメールを送った。
「桜坂劇場のHPをクリックし、フランス語講座の講師をちょっと見て。私たちのお友達だったBではないかしら?」。そのYはすぐに返事をくれ「Bですよ。すご~い、ぜひ会ってください」と彼女も興奮していた。
昨日は、午後7時ごろ桜坂へ行った。緊張しながら待っていた。7時5分ごろBが来て、すぐに2階へ行こうとしたので「すみませ~ん」と呼び止め、「あのー、あなた1996年ごろに」と私が切り出すと、向こうもにこっとして二人で声を合わせる感じで「レンヌー」と叫んだ。彼は、10年ほど前にパリでも偶然あったことを覚えていて「こんなふうに会うのは3回目だよねー」と言っていた。結婚して沖縄にきたのは2011年。「沖縄」というと、私をすぐに思い浮かべたそうだ。でも、パリにいると思っていたらしい。
レンヌ時代の私が住んでいたところにも何回が遊びに来たが、「小さな道とか、部屋の中とか覚えてるよ」と懐かしそうに言っていた。Bは年の離れた弟、おいっこという感じだった。今もそういう印象だ。連絡先を交換した。
こんなふうに再会できるなんて、人生は美しいね。
震災から2年
2013年03月11日
もう、昨日のことになるが、侍ジャパンの大勝は気持ちよかった。TBS解説の桑田真澄が言っていたが、日本の投手は誰がきてもイケルと。
3連覇に向かって、頑張ってください。
今日、3月11日は、東日本大震災から2年。あれからもう、なのか、まだなのか。昨年もそうだったが、その日が近づくと、テレビ局はじめメディアはいっせいに特集をする。3年、5年、10年たってもこの大惨事に人々はどうやって悲しみを乗り越え、新しい活路を見出していったかを
追い続けてほしいと思う。まだまだ生々しく残るあの津波の映像。最近聞こえなくなったが、「頑張ろう日本」という言葉。東北の人は頑張っている。私も頑張ろう。
3連覇に向かって、頑張ってください。
今日、3月11日は、東日本大震災から2年。あれからもう、なのか、まだなのか。昨年もそうだったが、その日が近づくと、テレビ局はじめメディアはいっせいに特集をする。3年、5年、10年たってもこの大惨事に人々はどうやって悲しみを乗り越え、新しい活路を見出していったかを
追い続けてほしいと思う。まだまだ生々しく残るあの津波の映像。最近聞こえなくなったが、「頑張ろう日本」という言葉。東北の人は頑張っている。私も頑張ろう。
ウッディ・アレンの映画
2013年02月23日

大好きなウディ・アレンの映画が、立て続けに桜坂劇場で公開されていたので、見てきた。
まずは、「映画と恋とウディ・アレン」。マシンガン・トークのマーティン・スコセッシから始まって、彼の映画のミューズたちのコメントが続く。
ウディの初期のころの映画のヒロインだで、元カノの一人、ダイアン・キートンは、彼に初めてあったとき、「ぜったい付き合わなきゃ」と思ったらしい。「アニー・ホール」「マンハッタン」で、70年代のオッシャレーな都会の恋人を演じ、90年代初めに「マンハッタン殺人ミステリー」で、ちょっと倦怠がかったおもしろ夫婦役をやっていた二人。あれから共演がないなあ、ぜひ、「老いた」現代のカップルを演じてほしいです。
ウッディといえばニューヨークなんだけど(最近はヨーロッパね)、この映画を見ていたら、たまらなくニューヨークに行きたくなった。どこがどうというやけではなく、とにかく、NY,NYだよ。2泊3日でもいい。映画館から帰ってきて、2泊3日のツアーをネットで探したけど、さすがに、きついなあと、現実に戻った私。
続いて、「恋のロンドン狂騒曲」です。お母様役のジェマ・ジョーンズは、イギリスの人気番組「scoops」(日本名MI-5)で、イギリス内務省のスパイ、それもソビエト・ロシアにまだ傾倒している「冷戦時代サイコー」の鉄のような女を演じていた(イギリスのできる女はみんな鉄の女?)。
あのおばさまが、うさんくさい占い師の言葉を信じて、新しい幸せをつかもうとする。このジェマと夫役のアンソニー・ホプキンスが演じた老年カップルは、ウディの「夫たち妻たち」のジュディ・ディビスとシドニー・ポラック演じる夫婦に似ていた。
最後がミステリーじみて、どうなるのかしら~で終わる。ロンドンにもいきたいワ。
ところで映画と言えば、アカデミー賞。明日、あさってには決まるのではないかしら。「レ・ミゼラブル」のヒュー・ジャックマンは素晴らしかった。歌が圧倒的にうまい。彼に主演男優賞を取ってほしい。